安楽死合法論者の瀧川幸辰は、自分の肉親が実際に安楽死状況になったとき、怖くて、医者に安楽死をやって下さい、と頼むことができなかった。
写真はWikipediaから
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%B7%9D%E5%B9%B8%E8%BE%B0
娘カレン・アン・クインランから人工呼吸器を撤去するよう裁判を起こした両親は、裁判所が「自分で外すなら認める」といったらどうすると聞かれたとき、混乱して泣き出した。
写真はやはりWikipediaから
https://en.wikipedia.org/wiki/Karen_Ann_Quinlan
この二つのエピソードは安楽死論の枕としてジミーがよく使ったものである。
いままた、教科書の違法阻却論でこの問題に向き合う。
本当に、いくつになっても。
ファインディング・ニモ DVD ('03米)〈2枚組〉法律家は自分たちの守備範囲、テリトリーは裁判規範としての法律の解釈であり、行為規範ではないと考える傾向に合った。
典型例が「可罰的違法性の理論」である。
大学内を私服で嗅ぎ回る公安警察官を捕まえて、「自己批判書」(詫び状の一種)を書かせる、警察手帳を取り上げるような行為は、社会人ならやってはいけないことだが、暴行罪、逮捕監禁罪、強要罪、強盗罪として処罰するには値しない、「可罰的違法性がない」というようなものである。これは基本的には正しいのだろう。
しかし、裁判規範が直ちに行為規範に跳ね返る領域では、両者は一致しなければ具合が悪いようにも思う。
警察官の職務行為の適法性に関する基準がそのようなものだが、瀧川幸辰、カレンの両親の直面した問題というのもそのうちのひとつである。
法律家、特に刑法学者は、安楽死、終末期医療の中止を不可罰にしたがる。
ALSの息子の懇願を容れて呼吸器のスイッチを切ってから自殺を図った母親(相模原ALS事件)も無罪にしたくなる。
しかし、もし無罪判決が出れば、ALS患者の介護をしている人たちはどう思うだろうか。
“患者から頼まれればスイッチを止めてもいいのだ”、“自分たちは何のために患者と一緒に頑張ってきたのだろうか”
「滑りやすい坂道」「くさび理論」というのは、論理としては成り立たないと思うが、その実質がここにあるということなら理解しうる。
以上のような場面では、裁判規範は行為規範と一致しなければならない、とすべきなのだろうか。
一致すべき場面とは何なのか。
あるいは、本当はすべての局面で一致すべきだということなのか。
“なお慎重な検討が留保されなければならない”というようなことは、絶対に言いたくないのが居眠りきつねなのだが。